アイドル
中学生くらいのときからなんとなく好きな男優とか女優とかは持ってるべきみたいな空気感があった気がする。
あった気がするだけで、本当はなかったのかもしれない。これって陰謀論ですか。
そんなことはどうでも良いんですけど、ジャニオタのレベルが高すぎる。ファンが清楚系な気がする。好きになる人にジャニオタが多すぎる。
あと、彼氏がいるとファン活動をネットで見せなくなる傾向があり、SNSも私生活が見えない自制心があって好きすぎる。
彼女がジャニーズのアイドルをすごく好きだったら嫉妬するし、そういうことを分かってる人が多いのが凄い。
でも、好きな人がSixTONES好きだったのを知ったらちょっとしんどい。
こういうタイプ好きになる感じか〜とか思っちゃう。(黙れ)
けど、マスカラはいい曲。
SnowManはわかる気がする。王道だし。目黒蓮イケメンだし。
あと、キンプリもわかる。髙橋海人は可愛いし、永瀬廉はサッカーが上手い。
知り合いのジャニオタはSnowManファンが多い気がする。絶対この人目黒蓮好きだろって人が目黒蓮好きだったりする。
自分がファンなわけじゃないのに、人の趣味を調べて詳しくなっている。
会社訪問してきた
この前、10月から働くことが決まっている会社を訪問してきた。
朝、新幹線に乗ってすぐに交通費の精算のための印鑑を忘れたのに気付いたが、なんとかなるだろうと思って家には帰らなかった。
実際こういうときはなんとかなるもので、朝9時に開いている印鑑屋さんに寄って事無きを得た。朝9時から開いてるなんてありがたい会社だと思った。
自分の名前のゴム印を店の前で探して見つけた時は、安堵した。後々社員の方に聞いてみたら印鑑ではなくサインでも別に良かったらしい。
印鑑屋さんから会社は近くて、徒歩で4分くらいだった。東京駅からバスで来てたから待ち合わせまでは残り30分くらいしかなかった。東京のバスって先払いなんだ。
タワービルに着くと黒のポロシャツで来ていたからトイレでYシャツに着替えた。トイレは全然混んでなくて他には1人もいなかった。あと、すごくcleanだった。
受付の人にオフィスにどうやって行くか聞いたら冷静に「その建物は隣です」と言われた。何の関わりもないビルのトイレで俺は服を着替えていたらしい。
間違えて入ったビルも会社のあるビルもすごく綺麗でデカくて東京〜☝️って感じがした。いや、Tokyo🤵♂️って感じがした。
そこから目的の階にエレベーターで上がりトイレ(頻尿)に行き格好を整えるとフロアの入口に向かった。
集合時間の5分前に着いたがフロアの入口にはすでに担当の人が三人も待っていてくれて、少しだけ冷や汗が出た。
ハンカチで冷や汗を拭いてると「緊張してる?笑」と聞かれ、「はいぃー」とやす子のマネをしたら「予選敗退👏」と言われた。(戯言)
色々あって、配属先を聞いて東京勤務が確定した。あと、オフィスからみる景色は東京の真ん中から見る景色って感じですごくよかった。リモートワークは多分自分に合わないから出社するやる気が出そう。
15時半くらいに会社見学が終わり、誰かと会おうかな〜とウキウキ気分で東京に住んでる友人たちに連絡してみたが、30分経っても連絡が来なかったので、真顔で送信取り消しをした。世間の15時半はまだ働いている。
歩いて汗だくで新橋駅に行き新幹線で品川から自由席で帰ったけれど、三人席の真ん中の席を荷物で埋めているおじさんがいたのでその逆側の席に座った。自分は悪事に手を染めず、おじさんに全ての批難を背負わせた。
そういえば、日本で連絡を取らずに知り合いと会ったことが一度しかないけれど、意外と予定を決めないと会えないものだなとちょっとだけ寂しさを感じた。
アメリカの大学の教養科目として学んだ歴史(アメリカ編)
追記
この記事は大学生だった当時僕が暇を持て余して書いていたものですが、今途中から同じくらい詳細に書くのは不可能だと判断したのでここまでの中途半端なものを公開します。
教養の科目として今学期にアメリカの歴史の単位を取ったのでその内容をシェアしたいと思います。授業は、ヨーロッパのいろいろな国からの植民地化、そこからのアメリカ合衆国建国について多面的に展開していったので、この記事内で突然時系列が戻ったりすることをご了承ください。(例、スペインの話で1800年まで行ったのにイギリスの話で1500年にまで戻るなど)また、本記事では画像を添付していませんが、よりアメリカの歴史を理解するためには植民地化の時の地図を辿ることが必要であると考えています。興味のある方はぜひ年代別で地図を確認して見て下さい。
まず、始まりはネイティブアメリカンについてでした。内容としては、
・どのようにリーダーが決められていたのか
・労働階級の男女それぞれの役割(男は狩猟や釣り、女は農業や介護など)
ここで特に驚いたのは、コロンブスがアメリカ大陸にたどり着いたとされる1492年が最初の特定の歴史の年代だったことです。
スペイン
コロンブスがアメリカ大陸を発見して、最初に乗り込んだのはスペイン人達です。スペイン王室の目的としては、黄金を手に入れること、ネイティブアメリカン達の労働力化、スペインでは育たない作物をアメリカ大陸で育てること、宗教(カトリック)を広めることでした。
結果として、ネイティブアメリカンはカトリックの宗教を強制され、男は労働力として搾取され、女は体が使われました。少数のネイティブアメリカンは抵抗に成功しましたが、抵抗できなかったネイティブアメリカンも大量にいます。
また、ネイティブアメリカンはヨーロッパ人たちが持ってきた伝染病にも苦しみました。具体的に、特定の場所では、1492年から1550年の間に30万人から500人にネイティブアメリカンの数を減らし60%-90%のネイティブアメリカンが死んだという記録があります。この伝染病(インフルエンザや水痘など)はネイティブアメリカン達の宗教的なリーダー達では治せなかったため、キリスト教に改宗したネイティブアメリカンもいます。
The Columbian Exchange(コロンブス貿易?)という言葉も紹介されました。この取引はアメリカ大陸、アフリカ大陸、ヨーロッパをつなぐもので、ヨーロッパ、アジア、アフリカを原産とするものとして、リンゴ、米、小麦、牛、鶏肉など。アメリカ大陸原産のものとして、アボカド、豆、トウモロコシ、ピーマン、トマト、カボチャ、タバコ、白イモ、サツマイモなどが紹介されました。
イギリス
また、1500年代のイギリスは社会問題として、貧困や犯罪の増加がありました。簡単に説明すると、人口の5%ほどの上流階級が富の95%を支配し、30%-35%の中流階級が5%を支配していたため、残り60%の下流階級での犯罪や貧困が増加していました。
そのため、イギリスの西側の植民地推進派はこの社会問題を解決するために、ホームレスや犯罪者などをアメリカ大陸は美しく、危険のない土地だと丸め込み、アメリカ大陸に送り出しました。
最初の試みは1585年で、送り込まれたイギリス人たちは最初はネイティブアメリカン達の助けを得ることはできましたが、ネイティブアメリカンを支配しようとネイティブアメリカン達のリーダーを殺したため、ネイティブアメリカン達は別の土地に行っていしまいます。また、この時のイギリス人たちは新しい土地での農業の仕方もわからず数か月のうちに食料は無くなり、人々はイギリスに帰らざる負えませんでした。
二度目の試みは1587年で、植民地化に出発したリーダーは物資を得るためにイギリスに戻り拘束され、1590年にリーダーは同じ場所に戻ってきましたが、そこには誰もおらず、失敗となりました。
三度目の挑戦はThe Virginia Company(バージニア社)というビジネスベンチャーによる挑戦となりました。1606年に100人が送り込まれ、1608年初頭には34人の生存が確認されています。また、1609年に500人が新しく送り込まれましたが、厳しい冬により、1610年には60人しか残っていませんでした。結果として、1607年から1622年までには10000人が送り込まれましたが、1622年には1200人しか生存しておらず、The Virginia Companyは利益が得られず破産しました。
しかしながら、バージニア州でイギリス人たちが住んでおり、王室による植民地とされていたところで、換金作物であるタバコを作ることによって、イギリス人たちは指数関数的に人口を増加させ始めました。そのため、1607年には104人しかいなかったのにもかかわらず、1650年には13000人に人口が増加しています。また、初期のイギリスからの植民者の生存戦略はその場に定住していたネイティブアメリカンの部族(Powhatan Confederacy)たちと結婚をするなどがありました。当時のその場に定住していたネイティブアメリカンの部族の数に対して、イギリス人たちの数が少なく、敵対しても勝てなかったというものがあります。
しかしながら、タバコを作るために、どんどん土地を拡張していくイギリスからの植民者たちですが、そこでネイティブアメリカンと対立してしまいます。タバコは肥沃な土地で3年ほどしか継続して育てることができず、多くの土地を開拓する必要があったためですね。
the Massacre of 1622(1622年の大虐殺)と呼ばれる争いがネイティブアメリカンの攻撃により行われます。この戦いにより1200人のイギリスからの植民地者のうち347人が殺されますが、イギリス人達もこの争いに対して復讐を行い1622年の秋に、Powhatan Confederacyのコミュニティと食糧庫を破壊します。また、1623年の春にイギリス人たちは和平会議を招集しますが、集まった250人のPowhatan Confederacyの指導者たちを毒殺します。(自ら和平会議を招集しながら毒殺することにとんでもない残虐性と卑怯さを感じますね)
この戦いは1632年まで続きますが、最終的に終結し、イングランドは莫大な土地を手に入れることになります。1607年には24000人だったネイティブアメリカンの数は1650年には3000人まで数を減らしています。
ニューイングランド州へのイギリスからの植民者は中流階級でした。彼らは、技術や貿易のやり方を知っていて、いくらかのお金を持つピューリタンとして知られていました。
ピューリタンは宗教的観点からアメリカ大陸へ来ています。当時のイギリスではプロテスタントの宗教改革が十分ではないと感じていましたし、不道徳や罪人、犯罪などを全く好みませんでした。また、ピューリタン達は社会を浄化しないと神から裁きを受けると信じていましたし、過激的なピューリタンはイギリスの社会からは別れなければならないと信じていました。(このような思想のピューリタンたちは分離主義者と呼ばれ、アメリカ大陸に新しい社会を作ろうとしました。)
1620年に102人の分離主義者がイギリスを離れ、ニューイングランドにたどり着きました。また、1620年以降さらに多くの分離主義者が訪れ、1630年には1500人に達していました。やがて、主流のピューリタンたちもニューイングランドに移住し、1630年から1640年までに14000人が移住しています。
ここまででわかるバージニア州に来た植民者とニューイングランド州に来た植民者の違いは、バージニア州が若い独り身で技術のない貧困層でタバコを育てていたのに対し、ニューイングランド州は家族で、技術のある職人や農家ある程度の富で麦を育てていました。また、1640年以降ピューリタンは貿易によってお金を稼いでいます。
ピューリタンは宗教的迫害から自由を求めてアメリカに来たにもかかわらず自分たちの宗教については寛容ではありませんでした。誰もが教会に通わなくてはならず、共同体で、それぞれを監視していました。宗教の教義に反したことをしたら、投獄や極刑、拷問などが与えられました。
ピューリタンはネイティブアメリカンが、ピューリタンによって文明化されることを望んでいると考えていました。1637年にピューリタンはPequot(ペコ族)を攻撃しました。この戦いにより、ピューリタンは1500人のPequotを絶滅させ、約150人のPequotをカリブ海で奴隷として売り払いました。1650年から1670年にかけてピューリタンは宗教活動に勤しみました。祈りの町と呼ばれる町では、ネイティブアメリカン達のすべての行動が監視され、全員がピューリタンのような格好をすることを強いられ、全員が英語名に改名する必要がありました。1675年から1676年にかけて、ネイティブアメリカンの抵抗がありましたが、それは裏切りにより、ピューリタンに知らされ、ネイティブアメリカンは敗北しました。
ネイティブアメリカンによるヨーロッパ人たちによる植民地化への抵抗
ここで成功したネイティブアメリカンの具体的な反乱として有名なのはThe Pueblo Revolt(訳:プエブロの反乱)です。また、他の失敗した抵抗例としてはHandsome Lake(ハンサムレイク)の宗教や、Tenskwatawa(テンスクワタワ)とTecumseh(テカムセ)の兄弟の動きがあります。
奴隷制
奴隷制の歴史はアメリカの歴史を語るにおいて絶対に切り離せないものです。1600年代から1700年代にかけて奴隷制度は大きく発展します。下流階級のイギリス人たちが移住を試みたバージニアでは、当初、人種は社会的地位を決定するものではありませんでした。裕福な人間は裕福な人間と結婚し、貧乏な人間と結婚していました。しかし、1700年代初頭に人種が地位の決定要因となりました。ご存じの通り、白人は特権を持ち、アフリカ系アメリカ人は特権を否定されます。(アフリカ系アメリカ人というのは、アメリカ人が黒人を指すとき常用する言葉です)
バージニアは元々indentured servants(年季奉公人)に頼っていました。貧しい白人は土地所有者と、借金を払うために何年も働くことと引き換えに年季奉公人の移動費を払うというもので、交通費が完遂されるまで無料で働くという契約でした。イギリスの貧しい白人たちはより良い生活のためのチャンスだと思いやってくるという仕組みですね。
調べてみると実際のこの仕組みは労働者というより完全に土地の所有者優位のほぼ奴隷のようなものだったようです。それでも、自由会費という生活費のために支給されるお金が当時では高額だったらしく、働いていた人々は大金を稼ぐことができていたようです。しかしながら、この貧しい白人達はBacon’s Rebellion(ベーコンの反乱)の後に年季奉公人としてほとんど来なくなり、賃金が増加したため、アフリカ人奴隷がより安い選択肢となっていきます。(これまでは多くの黒人奴隷はカリブ海やブラジル方面に売られていたため安価ではありませんでしたが、賃金と比べ相対的に安くなります)そして、アフリカ人たちは年貢奉公人より長くよく働きました。奴隷がどういう扱いされいていたは、" Incidents in the Life of a Slave Girl"を読むとよくわかるのですが、日常的に暴力行為が行われ、主人にレイプされて子供ができても白人は罪には問われず、所有物として扱われました。
イギリスVSフランス
他
僕の受けたクラスではヨーロッパ人たちの植民地化に対するネイティブアメリカンの抵抗についてのリサーチペーパーが一番重い課題で、成績の45%を占めていました。僕はネイティブアメリカンのヨーロッパ人からの植民地化に対しての宗教的、または精神的抵抗について書きました。1次資料や2次資料から最低でも計9つ以上の引用資料が求められました。
また、学期中に" Incidents in the Life of a Slave Girl","The Journey of Crazy Horse","Refusing the Favor"の3冊の本を読むことを求められ、その本に対するレポートが成績の30%を占めていました。特に、" Incidents in the Life of a Slave Girl"は、個人的に当時の奴隷制を理解するのに役立ちましたので、奴隷制がどのようなものだったのか知りたい方はおすすめです。
後は、授業中に映像を見て、教授から出される3つ程度の質問に答えたり、3人程度のグループワークでみんなでワードのドキュメントを読んで、2つ程度の質問に回答することが成績の25%を占めていました。
コロナ下でのアメリカへの留学生の一例
こんにちは、初めましてやすひらです。
私は現在アメリカに留学中なのですが、コロナ期間中の留学生または海外在留邦人の一例として自分がどのような生活を送っているのかに興味を持ってくださる方もいるのではないかと思い筆を取りました。
さて、友人のSNSなどを見ている限り日本の大学では様々な対策が取られて授業が始まっているようですが、アメリカの大学でも同じように対策が取られて秋学期、学校によっては冬学期が始まっています。具体的にどのような授業がされているかというと、僕の大学ではクラス登録の際に3つの選択肢がありました。
1つ目は
「授業がすべてオンラインで行われ、かつ、いつでも授業が受けられるスタイル」
2つ目は
「授業がすべてオンラインで行われるが、授業時間が決まっているスタイル」
3つ目は
「学期の途中でオンライン授業から対面授業に移るスタイル」です。
日本の化学・物理の授業がどのような構成になっているのかわからないのですが、アメリカの化学・物理の授業には付属でラボの単位も登録する必要があります。(ラボはラボラトリーのラボです。)
ラボの授業では必ず対面授業を行う必要があるらしく、ラボのクラスを取る人は必ず3つ目の選択肢になります。
しかしながら、学期の途中で、僕の通う大学の都市の新規コロナ感染者数が今だ高い比率を保っているので、学校からラボ以外での対面授業はオンライン授業のままになるというメールが最近届きました。
そのため、ラボ以外のクラスは実質1つ目か2つ目の選択肢となっています。
私は5つのクラスを登録したのですが、数学と専攻の授業を1つ目の選択肢で受けて、他の3つは強制的に2つ目の選択肢で取ることになっています。
学期が始まる前は「めんどくさいなあ」と思っていたのですが、何週間か経って慣れてきて最近では画面を通しての対面授業が楽しみになってきました。
逆に1つ目のスタイルの授業が悲惨で、僕はあまり成績に深刻な影響を受けていないのですが、他の生徒たちの成績を見ると(平均点・最低点・最高点が見れます)ギリギリCを取れる点数が平均になっていたり、先生が生徒からの声を受けて課題の期日を伸ばしたりしています。というか、1つ目の選択肢の授業はまるで授業という授業を行っておらず、パワーポイントを自分で見たり教科書に付属でついているオンラインでの練習を自分で学習するしかないので、なんというか、「お金の無駄」というのをものすごく感じます笑 これは完全に愚痴なのですが、一つ目のスタイルの授業の先生は二人ともメールの返信が遅く(または返ってこないので)本当にイライラさせられています。
授業以外の生活はというと、僕は完全に5か月ほど?家の敷地の外に出ていません
現地の人たちは普通に遊んでいる人が多いし、コロナはただの風邪だからとバイオロジーが専攻のメンターに言われたり、オンライン授業で毎日のように先生が「この現状にイライラする」と言っているのを見るとなぜ新規感染者数が低水準にならないのかを肌に感じます。
食べ物とかどうしてるの?という疑問もありそうですが、僕はアマゾンにすべて頼っています。最近ではアマゾン内で生鮮食品をデリバリーしてくれるサービスもありますからね。
そんなんなので、そろそろ運動しないと春学期が始まったときに「なんだこのデブ」とか思われそうで怖いです。
色々とやることはあるのですが、オンラインで完結できることが多いので助かっています。もっと昔に留学していた人たちは本当にすごいなあと思いますね。
また気が向いたらほかの記事も書こうと思います。では健康にお気を付けください。