僕が浪人しているときに固めた自分の中での人生というもの

皆さんは「人生とは?」と聞かれてどんな想像、または空想をしますか?

この「人生とは?」という疑問は個人的に現代に生きるほぼすべての人間が生きていてどこかしらで当たる壁だと考えています。多くの人は特に思春期にこの壁に当たるのではないでしょうか。

僕は中学生の時に進路を選ぶ際にこの壁にぶつかり、答えの出ないまま受験を終えましたが、浪人の最中にまたこのことについて考え、自分の中では答えを出すことができたと思っています。

結論から端的に言うと僕は人生とは「楽しむものである」としています。

今、「あ ほ く さ ^^」と思ったそこのあなた、正解です。結論から言うとめちゃくちゃイキってるアホみたいですよね。もし他の人の記事でこんな結論見たら速攻でブラウザバックします。しかし、今回はここで帰らず、ぜひなぜこのような結論が出たのか読んでいってほしいです。

まず、最初に、浪人し始めのときに僕は海上自衛隊の学校に進学しようとしていました。その理由は、人生とは「社会の歯車になり役に立つこと」だと考えていたからです。

正直、自分で言うのもなんですが、この人生観は責任感とか、人のために生きる、のような奉仕精神が感じられてものすごく尊敬できる人生観だなぁと思います。もし、自分以外の人間がこのような人生観で長年生きていたら、その人のことを僕は尊敬すると思います。

しかし、僕はそこで「社会の歯車になり役に立つこと」が僕の目的であるならば、できるだけ大きな歯車になってやろうと考えました。僕は自分自身のことは美的感覚に優れている人間だと考えていますし、芸術関係のことをやるのは好きだったので、海上自衛隊に所属するよりも建築関係に進学し、坂茂さんや、隈研吾さん、外国人で言えばアレハンドロ・アラヴェナさんのように、人を守る建築や、震災の時により大きな力で人を助けられる人間になろうと思いました。

しかし、しばらくして不安になったのが、自分の人生を通して最後まで建築家という仕事を全うできるかということです。どういうことかというと、現在のAIの波に押されて、先ほど挙げた建築家の方々のようなトップの人しか生き残れないのではないか?ということです。

最近のAIの発展の勢いには驚くべきものがあります。今現在、もしかしたら . . .と思ってしまうような職種であと50年以上続けていけるとは思えませんでした。そこで僕はそれならば、自分自身でAIを発展させたならば仕事を奪われないのではないか、と考えました。AIを発展させる側ならば手綱を握っているわけだからAIという馬には引かれないだろうと考えたわけですね。そして、現在コンピュータサイエンス専攻で大学生活を送っているわけですが、そんなことはどうでもいいです。

AIについて考えたときに僕はAIというものには終わりがないなと思いました。人間の人生には「死」というあきらかな終わりがあるのに対して、AIは成長を続ける、まさに個人で人類史のように成長を続けるわけです。

僕には中学生時代、高校生時代共に深刻に死にたいと思う期間がありました。本当に深刻で特に高校時代の一番ひどいときは自分の母親に対して、死にたいなどと親にとっては脅しのような言葉を投げかける最低な人間になっていました。でも今では全くそんなことは考えていないので安心してください。

この高校時代や、AIについて考えた二つのことを合わせて、僕は「人生とはAIとは違い、生まれたときから死に向かっている」という当たり前ながらも日常生活では意識することのない事実を強く再認識したわけです。

そこでAIと人生というものを比較したときに、まるで人生はゲームだなと思いました。よく親は「ゲームは一日一時間」などと子供に言ったりしますよね。そこで子供はその限られた一時間の中で全力でそのゲームを楽しむわけです。この関係まるで人生ですよね。この場合、母親が1時間でゲームを止めるという直接的な「死の原因」、一時間という「寿命」その二つを合わせて人生というわけです。

ゲームを義務感のようにやっても楽しくないですよね。ゲームは人によっては暇つぶしか娯楽のどちらかですが、義務感でゲームをする人は多分esports選手だったり、一部の配信者だけですよね。そしたら、ゲームを責任感だけで生きるのってめちゃくちゃ面白くないなと思ったわけです。面白くとも何ともない壺ゲーを誰も見ていないところで70年かけてやれなんていわれたらどこかで多分自殺します。人生でも、責任感で人生をプレイして自殺している人がいますよね。僕も死にたいと思っていたくらいですからわかります。あれは責任感や義務感で人生をプレイする人の特徴です。

冒頭で端的に、僕は人生とは「楽しむものである」としましたが、別の言い方をすると、人生とは「ゲームであり、暇つぶしである」ということになります。でもこんなこと言っても「へーなんかかっこいい^^」と煽られるだけなのでいつもは黙って心の軸にしています。

思い出しながら書いたので論理がぐちゃぐちゃになっていしまったかもしれませんが、結論は人生は暇つぶしだということです。

みんなでできるだけ面白い暇つぶしをしていきましょう

では、義務感にお気をつけて

コロナ下でのアメリカへの留学生の一例

こんにちは、初めましてやすひらです。

私は現在アメリカに留学中なのですが、コロナ期間中の留学生または海外在留邦人の一例として自分がどのような生活を送っているのかに興味を持ってくださる方もいるのではないかと思い筆を取りました。

さて、友人のSNSなどを見ている限り日本の大学では様々な対策が取られて授業が始まっているようですが、アメリカの大学でも同じように対策が取られて秋学期、学校によっては冬学期が始まっています。具体的にどのような授業がされているかというと、僕の大学ではクラス登録の際に3つの選択肢がありました。

1つ目は

「授業がすべてオンラインで行われ、かつ、いつでも授業が受けられるスタイル」

2つ目は

「授業がすべてオンラインで行われるが、授業時間が決まっているスタイル」

3つ目は

「学期の途中でオンライン授業から対面授業に移るスタイル」です。

日本の化学・物理の授業がどのような構成になっているのかわからないのですが、アメリカの化学・物理の授業には付属でラボの単位も登録する必要があります。(ラボはラボラトリーのラボです。)

ラボの授業では必ず対面授業を行う必要があるらしく、ラボのクラスを取る人は必ず3つ目の選択肢になります。

しかしながら、学期の途中で、僕の通う大学の都市の新規コロナ感染者数が今だ高い比率を保っているので、学校からラボ以外での対面授業はオンライン授業のままになるというメールが最近届きました。

そのため、ラボ以外のクラスは実質1つ目か2つ目の選択肢となっています。

私は5つのクラスを登録したのですが、数学と専攻の授業を1つ目の選択肢で受けて、他の3つは強制的に2つ目の選択肢で取ることになっています。

学期が始まる前は「めんどくさいなあ」と思っていたのですが、何週間か経って慣れてきて最近では画面を通しての対面授業が楽しみになってきました。

逆に1つ目のスタイルの授業が悲惨で、僕はあまり成績に深刻な影響を受けていないのですが、他の生徒たちの成績を見ると(平均点・最低点・最高点が見れます)ギリギリCを取れる点数が平均になっていたり、先生が生徒からの声を受けて課題の期日を伸ばしたりしています。というか、1つ目の選択肢の授業はまるで授業という授業を行っておらず、パワーポイントを自分で見たり教科書に付属でついているオンラインでの練習を自分で学習するしかないので、なんというか、「お金の無駄」というのをものすごく感じます笑 これは完全に愚痴なのですが、一つ目のスタイルの授業の先生は二人ともメールの返信が遅く(または返ってこないので)本当にイライラさせられています。

 

授業以外の生活はというと、僕は完全に5か月ほど?家の敷地の外に出ていません

現地の人たちは普通に遊んでいる人が多いし、コロナはただの風邪だからとバイオロジーが専攻のメンターに言われたり、オンライン授業で毎日のように先生が「この現状にイライラする」と言っているのを見るとなぜ新規感染者数が低水準にならないのかを肌に感じます。

以前、麻生大臣の「民度」という言葉に賛否両論ネットでは繰り広げられていましたが、正直僕は何も考えず外に繰り出しているアメリカ人たちがたくさんいるを見ているのでこの発言が大臣として適切だったのかはともかく完全に否定はできないなと思いました。

食べ物とかどうしてるの?という疑問もありそうですが、僕はアマゾンにすべて頼っています。最近ではアマゾン内で生鮮食品をデリバリーしてくれるサービスもありますからね。

そんなんなので、そろそろ運動しないと春学期が始まったときに「なんだこのデブ」とか思われそうで怖いです。(運動するとは言ってない)

 

色々とやることはあるのですが、オンラインで完結できることが多いので助かっています。もっと昔に留学していた人たちは本当にすごいなあと思いますね。

 

また気が向いたらほかの記事も書こうと思います。では健康にお気を付けください。